人間の筋力は、通常その能力の70%ぐらいしか出すことが出来ない。あなたが渾身の力を振り絞って何かをしたとしても、それは本来の能力の70%の力であるのだ。
本来持っている力を100%発揮してしまうと、骨格や筋肉がその力に持ちこたえることが出来ず、壊れてしまう。そのために脳が運動能力にリミッターをかけているのだ。
ところが、そのリミッターを解除して、100%のフルパワーを発揮することもある。「火事場のクソ力。」と言われるものがそれである。
火事などの緊急事態の時には、
「筋肉が断裂するとか、骨や筋を痛めるとかを気にしてる場合ではないっ。」
「とりあえず生命を維持することが先決だぜっ。」
と言う訳でリミッターが解除される。
こう言う場合、人は通常では考えられないほど重たいものを持つことが出来たり、高く飛ぶことが出来たり、無茶無茶速く走ることが出来たりする訳だ。
緊急時に通常より飛躍的な能力を発揮するものが、実は他にもある。
脳だ。
平常時は、精神の混乱を防ぐために、膨大に貯蓄されたデータを制御し、必要なデータだけを取り出して思考している。
ところが緊急事態の時には、緊急事態を回避するために役立つデータがないかどうか、フルスピードでデータ検索を行う。きちんと分類統計され、整理されてデータが格納されている引き出しを、無作為に開けまくって死に物狂いでデータ検索を行う訳だ。
交通事故などの生死に関わる非常事態の時、生まれてから現在までのありとあらゆる記憶が一瞬にして蘇る「記憶が走馬灯のように巡る。」と言う現象は、このようなメカニズムによるものだ。
小さな海辺の街の、小さな砂浜の、とある真夏の昼下がり。
オレは数人の仲間と共に、海の家でアルバイトをしていた。
仕事の合間に、沖の防波堤まで泳ごうと言うことになった。
真っ黒に日に焼けたオレたちは、競うように海に飛び込んだ。
泳ぎに自信のないエンドー君は、浮き輪を持って、海に飛び込んだ。
防波堤までの距離は、浜辺からはさほど遠くないように見える。しかし、実際に泳ぐと、ちょっとした遠泳であった。
防波堤が目前まで近付いた時、オレたちはエンドー君の浮き輪を取り上げた。
愛すべき、いじられキャラのエンドー君。浮き輪を取り上げられるのは、当然の成り行きだった。
岸からは、はるか沖の海の上。唯一の命綱を取り上げられたエンドー君、あっぷあっぷ。
「頼むから、浮き輪を返してくれよっ。」と懇願するエンドー君。
「エンドーっ。何か面白いこと言ってみろっ。そうしたら浮き輪を返してやるっ。」
水上で緊急事態に追い込まれたエンドー君に、オレたちは、ギャグを要求した。
エンドー君の頭の中ではフル回転でデータ検索が行われ、走馬灯のように記憶が巡っているはずである。限界に追い込まれ、極限まで性能を引き出した人間の脳からは、とんでもなく面白いギャグが出てくるはずである。
エンドー君、渾身の一発ギャグ。
「て、て、テトラポッチョっっっ。」
・・・。
なんだそりゃ。
テトラポッチョって、何だよ。何のギャグにもなってないよ。
一瞬の沈黙の後、じわじわと来た。あまりのくだらなさに笑いがこみ上げてきた。そして不覚にも大爆笑してしまった。
しょうがない、許すか。
それから何年も時は流れた。
オレたちも少しだけ大人になった。
今でも、夏になると、ふと思い出すのは「テトラポッチョ。」。
エンドー君が命がけで放ったギャグは、オレの心に深く刻まれ、モクモクと湧き立つ入道雲と、潮の匂いと共に、毎年夏を運んでくる。
命がけのギャグはいつまでも心にしみるぜ。
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