テトラポッチョ。
2003/08/12

 
 人間の筋力は、通常その能力の70%ぐらいしか出すことが出来ない。あなたが渾身の力を振り絞って何かをしたとしても、それは本来の能力の70%の力であるのだ。
 本来持っている力を100%発揮してしまうと、骨格や筋肉がその力に持ちこたえることが出来ず、壊れてしまう。そのために脳が運動能力にリミッターをかけているのだ。

 ところが、そのリミッターを解除して、100%のフルパワーを発揮することもある。「火事場のクソ力。」と言われるものがそれである。
 火事などの緊急事態の時には、
 「筋肉が断裂するとか、骨や筋を痛めるとかを気にしてる場合ではないっ。」
 「とりあえず生命を維持することが先決だぜっ。」
 と言う訳でリミッターが解除される。
 こう言う場合、人は通常では考えられないほど重たいものを持つことが出来たり、高く飛ぶことが出来たり、無茶無茶速く走ることが出来たりする訳だ。

 緊急時に通常より飛躍的な能力を発揮するものが、実は他にもある。
 脳だ。
 平常時は、精神の混乱を防ぐために、膨大に貯蓄されたデータを制御し、必要なデータだけを取り出して思考している。
 ところが緊急事態の時には、緊急事態を回避するために役立つデータがないかどうか、フルスピードでデータ検索を行う。きちんと分類統計され、整理されてデータが格納されている引き出しを、無作為に開けまくって死に物狂いでデータ検索を行う訳だ。
 交通事故などの生死に関わる非常事態の時、生まれてから現在までのありとあらゆる記憶が一瞬にして蘇る「記憶が走馬灯のように巡る。」と言う現象は、このようなメカニズムによるものだ。

 小さな海辺の街の、小さな砂浜の、とある真夏の昼下がり。

 オレは数人の仲間と共に、海の家でアルバイトをしていた。
 仕事の合間に、沖の防波堤まで泳ごうと言うことになった。
 真っ黒に日に焼けたオレたちは、競うように海に飛び込んだ。

 泳ぎに自信のないエンドー君は、浮き輪を持って、海に飛び込んだ。

 防波堤までの距離は、浜辺からはさほど遠くないように見える。しかし、実際に泳ぐと、ちょっとした遠泳であった。

 防波堤が目前まで近付いた時、オレたちはエンドー君の浮き輪を取り上げた。
 愛すべき、いじられキャラのエンドー君。浮き輪を取り上げられるのは、当然の成り行きだった。

 岸からは、はるか沖の海の上。唯一の命綱を取り上げられたエンドー君、あっぷあっぷ。
 「頼むから、浮き輪を返してくれよっ。」と懇願するエンドー君。

 「エンドーっ。何か面白いこと言ってみろっ。そうしたら浮き輪を返してやるっ。」

 水上で緊急事態に追い込まれたエンドー君に、オレたちは、ギャグを要求した。
 エンドー君の頭の中ではフル回転でデータ検索が行われ、走馬灯のように記憶が巡っているはずである。限界に追い込まれ、極限まで性能を引き出した人間の脳からは、とんでもなく面白いギャグが出てくるはずである。

 エンドー君、渾身の一発ギャグ。

 「て、て、テトラポッチョっっっ。」

 ・・・。
 なんだそりゃ。
 テトラポッチョって、何だよ。何のギャグにもなってないよ。
 一瞬の沈黙の後、じわじわと来た。あまりのくだらなさに笑いがこみ上げてきた。そして不覚にも大爆笑してしまった。
 しょうがない、許すか。

 それから何年も時は流れた。
 オレたちも少しだけ大人になった。
 今でも、夏になると、ふと思い出すのは「テトラポッチョ。」。
 エンドー君が命がけで放ったギャグは、オレの心に深く刻まれ、モクモクと湧き立つ入道雲と、潮の匂いと共に、毎年夏を運んでくる。

 命がけのギャグはいつまでも心にしみるぜ。
 

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